1200年2月6日(正治2年1月20日)は、梶原景時の命日です。
景時といえば、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場した中村獅童さんの姿が印象的でしょう。
源義経の戦術眼を「八幡様のようだ」と認め、源頼朝や源頼家など鎌倉殿のために謀略や暗殺などの汚れ仕事も自ら買って出た、実は頼れる忠義の武士。
しかし頭脳がキレるゆえか、合議制となった鎌倉政権において御家人仲間から嫌われ、ついには失脚し、しかも鎌倉から追い出されたところで襲撃されてしまいます。
それにしても……。
政権樹立のため全てを捧げてきたような景時が、なぜそんな仕打ちを受けることになったのか?
どうしたら回避できたというのか?
梶原景時の生涯を振り返ってみましょう。
梶原景時 石橋山の戦いで頼朝を逃がす
梶原景時の生年や幼少期の詳細は不明。
武士として当初は源頼朝の家臣ではなく、相模の武将・大庭景親(おおばかげちか)に仕えていたとされています。
しかし【平治の乱】で源義朝が敗死すると、時勢の変化により平家方へ。

源義朝/国立国会図書館蔵
そのため、頼朝が挙兵した後の治承四年(1180年)8月には、近隣の武士を率いて頼朝と戦い、これを破ります。
いわゆる【石橋山の戦い】ですね。
敗れた源氏軍は散り散りになって山中へ逃げ、景時らにも頼朝捜索の命が下りました。
ところが、です。
頼朝の居場所を知った景時は、何らかの理由で大庭景親にこのことを伏せておきます。
歴史書『吾妻鏡』などでは「景時はわざと平家方を別の山に導いた」とされ、忠義の現れであるという事になっています。

大庭景親が石橋山の戦いで敗走に追い込んだ源頼朝/国立国会図書館蔵
ただ、なぜそうしたのか、直接の理由は不明。
『愚管抄』では、治承四年から景時は頼朝に従っていたとされ、そのため「挙兵時から源氏方だったのでは?」という見方もありますが、これは少し怪しいです。
なぜなら石橋山の戦いは8月(新暦9月)なので、この合戦後、頼朝に仕えたとしても、治承四年の内であることに変わりありません。
それに、もし挙兵当時から景時が源氏方だったのなら「最初から味方だった」と記しておけばよいだけであり、「頼朝をかばった」なんて逸話も生まれにくいはずです。
仕えた時期の話はここまでにして、先へ進めましょう。
頼朝の御家人に
石橋山の戦いに敗れた頼朝は、いったん安房へ逃亡。
房総半島や武蔵の武士たちを味方につけて鎌倉へ向かいます。
兵団を引き連れた頼朝は平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏軍を撃破し、捕らえた大庭景親らを斬首に処します。

平維盛/wikipediaより引用
このとき梶原景時も降伏。
養和元年(1181年)正月に頼朝と対面を果たすと、晴れて御家人の一人となりました。
景時は当時の武士としては珍しく教養もあり、弁も立ったため、頼朝に重宝されるようになっていきます。
忠義心も確かで、寿永二年(1183年)12月には、頼朝の命を受けて上総広常を暗殺しました。
ドラマでは佐藤浩市さんが演じて話題になった上総広常です。
なんでも「二人で双六を打っているときに盤を乗り越えて首をかききった」そうで、鎌倉殿の13人でもおおよそ似たような展開でしたね。
広常に謀反の疑いがあったため頼朝が先手を打ったのですが、後に疑いが晴れると、頼朝は後悔したといいます。
景時の反応は伝わっていないので、割り切っていたのでしょうか。

上総広常/wikipediaより引用
一方で、こんな見方もあります。
「広常は平家打倒よりも関東での自立が望ましいと考えており、そのための兵力も持っていたため、謀反の疑いがなくても頼朝に処分されたのではないか」
そういう疑い深すぎるところが、後に源氏の自滅を招くのですが……。
宇治川の戦い
寿永三年(1184年)正月、梶原景時父子は源義仲討伐軍に組み込まれ、【宇治川の戦い】に参陣しました。
景時の嫡男・梶原景季(かげすえ)は義経配下となり、佐々木高綱と先陣を争って武名を上げています。
【宇治川の先陣争い】という有名なエピソードですね。

梶原源太景季(歌川国芳画)/wikipediaより引用
この戦は、景時が自らの能力を頼朝にアピールするきっかけにもなりました。
というのも、源義経や源範頼など、多くの武将たちが勝利を知らせる報告に終始したのに対し、景時だけが義仲の最期や自軍の戦功について事細かに記していたというのです。
現地にいない頼朝としては、できるだけ公正な恩賞で、御家人たちの信頼に応えたい時期。
少しでも多くの情報が欲しかったはずだけに、さぞかし頼りになったことでしょう。
しかし翌月【一ノ谷の戦い】では、直前に妙なエピソードが伝わっています。
当初は景時が義経の下に、土肥実平(どひさねひら)が範頼の配下に就く予定でしたが、反りが合わず配置を交換したというのです。
【当初の配置】
源義経
│
梶原景時
源範頼
│
土肥実平
↓
【直前の配置】
源義経
│
土肥実平
源範頼
│
梶原景時
土肥実平は相模の有力豪族・中村氏の一員とされる人。

土肥実平/国立国会図書館蔵
中村一族は当初から結束力が強く、頼朝挙兵の際も一族団結して馳せ参じたといいます。
ただ、それでいて熱狂的というわけでもなく、実平は状況を冷静に判断する目も持っていました。
例えば『吾妻鏡』によれば、頼朝が石橋山の戦いで惨敗した後、
「どこまでもお供します!」
と主張する他の武士に対し、実平は
「分散して逃げたほうが見つかりにくくなります」
と主張したとか。
当時は敵だった景時が頼朝を発見したにもかかわらず、見逃したのはこのやりとりの後だったようで、実平が忠義心と実利の感覚に優れていたのがわかります。
景時と実平の関係は不明なれど、当時、石橋山の話をしたこともあったかもしれませんし、いくらか親しみも持ち合わせていたのでは?
でなければ、戦の直前に所属の入れ替えも難しいでしょう。
一ノ谷の戦い
かくして梶原景時は源範頼に従い、実平は義経の配下となって一ノ谷へ。
範頼は大手軍(正面)、義経は搦手軍(裏手)の担当となります。
景時は息子の景季・景高とともに、生田口を守っていた平知盛と戦いました。
最初は互いに激しく矢を射かけ合い、その後、平家軍が打って出てきて白兵戦へ移行。
景時親子は矢の飛び交う中を突撃し、【梶原の二度駆け】と賞される戦い振りを見せます。
大手軍が激闘を演じる中で、これまた非常に有名な義経の襲撃【鵯越の逆落とし】が決まり、源氏軍が大勝を収めました。

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』/wikipediaより引用
景時は平重衡を捕らえ、護送のために一旦鎌倉へ戻っています。
土肥実平も同時期に鎌倉へ戻ったらしく、2月18日には景時と共に【播磨・備前・美作・備中・備後5か国】の守護に任じられました。
中国地方の概ね山陽道側の東半分+αですね。
頼朝は彼ら二人を範頼・義経の目付役として扱っており、信頼のほどがうかがえます。
屋島の戦い
同年4月になると、梶原景時と土肥実平が上洛し、平家の所領没収を担当しました。
この時期は源範頼が、中国から九州へ渡って平家方の武士を味方につけるための工作をしています。
頼朝は範頼に対し
「景季・実平とよく相談して事を進めるように」
と指示しており、範頼・景季・実平三人の連携を重視しているのがわかりますね。

源範頼/wikipediaより引用
同時期の義経が、許可を得ずに【検非違使】などへの任官を受けたことで頼朝の怒りを買い、一旦平家討伐から外されていたため、味方の連携を強く意識していたのでしょう。
しかし九州での兵糧や兵船の調達はなかなかうまく行かず、頼朝は方針を変えることにしました。
元暦元年(1185年)正月、頼朝は義経を再度、討伐軍に組み込むことを決めます。
摂津で準備させ、そこから屋島の平家軍を攻めるよう命じたのです。
平家物語では、このあたりから義経と景時が対立したという話が散見されるようになり、信憑性はさておき、次のようなエピソードがあります。
屋島へ渡る前、景時は兵の押し引きを意識し、
「船に逆櫓をつけ、進軍も撤退もしやすいように備えておくべきです」
と義経に意見しました。
逆櫓(さかろ)というのは、文字通り通常の櫓とは逆につける櫓のことです。船尾を進行方向に向けて進めることを指す場合もありますが、今回の場合は撤退のためでしょう。
しかし義経は反対します。
「そんな物は必要ない。退くときのことを考えていては兵が怖気づく」
「進むばかりが戦ではありません、退くことを考えないのは猪武者です」
景時が力説しても、聞きいれない義経。
義経の果断さは大きな長所である一方、敗戦のことも考慮して備える景時の考えも間違ってはいません。
結果は……。
義経が暴風の日に五艘の舟で出港し、油断していた平家軍を撃破して大勝を収めます。
景時が到着した頃には平家軍が既に撤退していたため、「六日の菖蒲」と嘲笑されてしまいました。
しかし、これは義経が奇跡的に渡航できたからであって、もしも海の藻屑になっていたら評価は真逆になっていたでしょう。
壇ノ浦の戦い
屋島の戦い、その翌月。
【壇ノ浦の戦い】が始まる前にも、源義経と梶原景時の間で争いが起きたといわれています。

源義経/wikipediaより引用
どういう言い争いだったのか?と申しますと。
まず景時が先陣を希望したところ、義経が「私が先陣を務める」と宣言。
これに対し、景時は「総大将が先陣を務めるなど言語道断、義経殿は将の器ではない」と言ってしまいます。
景時は、義経のことを「頼朝様の代理=総大将」と考えていましたが、義経は「総大将はあくまで頼朝兄上一人であり、自分は武将の一人に過ぎない」と捉えていました。
前提が全く異なっているため、言い争いになるのも仕方のない流れです。
このあたりは頼朝が明確にしておくべきだったかもしれません。
しかし、「将器ではない」という景時の言い方はさすがに無礼であり、二人のヤリトリを聞いていた義経の家臣たちが激怒。
景時親子と斬り合い寸前にまで険悪となってしまいます。
最終的には、三浦義澄が義経を、土肥実平が景時を御して、次のように説得しています。
「これから大事な戦だというのに、味方同士で争っている場合ではありません。
もし平家方が『源氏軍は仲間割れしている』などと聞いたら勢いづいてしまうでしょう。
それでは頼朝様も快くは思いませんよ」
何とかその場は収まったそうですが、これは土肥実平だけでなく三浦義澄の力も大きかったお陰でしょう。

三浦義澄/wikipediaより引用
義澄は、後に十三人の合議制に加わる有力御家人の一人。
平治の乱で頼朝や義経の庶兄・義平に従っていた老練な武将だからこそ、義経も尊敬できる武士だったのではないでしょうか。
平家物語では
「景時はこれを恨みに思い、後に讒言して義経を追い詰めた」
ということになっていますが、義経にも非はあります。
景時は戦略についてたびたび義経に諫言していて、義経がほとんど聞き入れなかったのです。
結果だけ見れば、義経の果断さが勝利を導き、しかも神がかっていたので、周囲や後世から見ると評価は高くなるのですが、バクチが外れたら源氏軍にとって痛打となっていたはず。
吾妻鏡でも「義経に不満を持っていたのは景時だけではない」と記されています。
後に頼朝と決裂した際、義経の味方が極わずかだったことからも、人望が無かったのは想像に難くありません。
義経の反旗
梶原景時と源義経の争いはともあれ、壇ノ浦の戦いでは平家に完勝。
今度は別の戦いが源氏サイドの中で始まります。
文治元年(1185年)秋。
義経は頼朝の怒りを買って鎌倉へ戻れず、京都にとどまっていました。
そこへ景時の息子・梶原景季が源行家討伐の命令を伝えに行くと、義経は病と称して面会を断ります。

各地で源氏蜂起を促していた源行家/wikipediaより引用
一両日後、景時が再び会いに行くと、今度は脇息にもたれて灸を据えており、いかにも病人といった様子。
そして「この有様なので、討伐は少し待っていただきたい」と申し出てきました。
景季は納得して鎌倉に戻り、頼朝にこれを報告しました。
その態度が、よほど腹に据えかねたのでしょう。景時はこう主張します。
「景季を待たせた一両日の間、わざと絶食し、病に見せかけたに違いなし。義経殿は行家殿と通じているのでは」
信頼している景時の主張に、すかさず動いたのが頼朝。
土佐坊昌俊に命じて義経の暗殺を図りますが、返り討ちに遭ってしまいます。
こうなっては関係修復は不可能とばかりに、義経は、後白河上皇に願い出て頼朝追討の院宣を取り付け、源行家と合流して反旗を翻そうと図ります。
行家は以仁王の令旨を頼朝に伝えた人ですね。
このときは頼朝の麾下に入ることを嫌がり、独自の勢力を保とうとしていたり、義仲に味方しながら些細な点で対立したり、なかなか気難しい人だったようです。
まぁ、源氏全体に言えることですが。
義経の死
頼朝が共通の敵になった義経と行家。
二人は一応協力体制をとりますが、都を出た後は散り散りになります。
その後、行家は和泉に潜伏するのですが、文治二年(1186年)5月、地元民が鎌倉方に居場所を密告し、北条時政の親戚とされる北条時定に捕らえられ、斬首となりました。
院宣を得た義経は、結局、兵は集まらず、京を落ちて奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃れます。

藤原秀衡/wikipediaより引用
もう、ここまで来れば皆まで言うな状態かもしれませんが、続けましょう。
庇護者だった秀衡が文治五年(1189年)に亡くなると、跡を継いだ藤原泰衡が頼朝の圧迫に負け、義経一行に襲いかかりました。
義経最期の合戦【衣川の戦い】。
義経は妻子と共に自害し、武蔵坊弁慶がそれを守って立ち往生したというのはあまりにも有名です。
討たれた義経の首は酒に浸して鎌倉へ届けられ、梶原景時や和田義盛らが検分を務めました。
二人をはじめ、居合わせた多くの者が涙したといいます。
ついていけないと思いつつも、義経の才能を惜しむ気持ちはあったのでしょう。
ただし、幕府が落ち着いた後も、義経の能力が有効利用できたかどうかは疑問です。
武辺一辺倒の人物が戦のない時代に生き残るのは至難の業。
わずか一回の発言で謀反を疑われ、攻め殺された範頼の例もありますし、仮に義経が生きていたとしたら、頼朝の長男・源頼家や北条氏と対立して、政権を追われたのではないでしょうか。
人望失う景時の讒言
なお、景時に讒言されたという人物は、他に夜須行宗(やす ゆきむね)と畠山重忠がいます。
夜須行宗は土佐の武士で、かつて頼朝の同母弟・源希義(みなもとのまれよし)を庇護しようとしていた人です。
平家方に察知されて希義は討ち取られてしまいましたが、行宗はそのまま源氏方につきました。
そして壇ノ浦の戦いに参加し、武功を上げたため、恩賞を願い出たのですが……そのとき景時はこんなことを言ってしまったとか。
「夜須という武士の名を聞いたことがない! でたらめを言って恩賞を得ようとするなどもってのほか!」
結果、両者の間で訴訟が起き、行宗の功績に対する証人が出てきたため、景時の負けとなりました。
その罰として、景時には鎌倉の道路普請が命じられています。
日頃の景時の言動からすると「記録や証人がないのに武功を言い立てる者は信用できない」という考えだったのでしょう。
もう一人、畠山重忠について。
重忠は武蔵の武士で、元は平家方についていた人です。
頼朝が一旦安房に逃れてから鎌倉へ向かうまでの間に源氏へ降伏したとされ、以降は忠実に頼朝へ仕えて、治承・寿永の乱(一連の源平合戦のこと)でも活躍しました。
一ノ谷の戦いでは義経の麾下に入り、鵯越の逆落としでは「大切な馬に大怪我をさせるわけにはいかない」として、自分が馬を背負って駆け下りたという逸話が有名な方です。

鵯越えで馬を背負う畠山重忠/wikipediaより引用
さすがに現実的ではないですが、重忠が剛力で知られた武士だったことは間違いないでしょう。
その重忠が地頭を務めていたところで、彼の代官が狼藉を働くという事件がありました。
武勇を惜しんだ頼朝が、一度はこれを赦すのですが、重忠が地元へ戻ると景時の疑惑癖がむくむくと起き上がります。
「重忠は、鎌倉に対して謀反の支度をするつもりでは?」
さすがに即手打ちとはならず、頼朝が他の重臣たちも集めて対応を協議。
すると小山朝政が使者の派遣を進言します。
小山朝政は頼朝の乳母・寒河尼(さむかわのあま)を後室に迎えており、挙兵当時から源氏で、頼朝にとっては身内同然の武将でした。
そこで朝政の一門である下河辺行平(しもこうべゆきひら)が使者に立ち、旧知の仲だった重忠に話しかけます。
二心のない人物にとって謀反の疑いほど心外なことはなく、事の次第を知った重忠は大いに悲しみ、自害までしかけたといいます。
行平がそれを何とか押し留め、「やましいところがないのなら、鎌倉で堂々と申し開きをしたほうがいいでしょう」と勧めました。
そこで重忠は鎌倉へやってきたのですが……取り調べを担当した景時は、まだ疑いの念が消えていません。
「起請文を出されよ」
「自分には二心がないので、起請文を出す必要はない」
この報告を受けた頼朝は何も言わず、重忠と行平に褒美を与えて帰したとか。
結果、他の御家人から「人望に嫉妬して陥れようとした」と噂され、景時の人気を下げる一因になったといいます。
この二つの話から伺えるのは、景時が書面や記録を非常に重視していたことでしょう。
良くも悪くもお役所仕事と言えるかもしれませんが、当時の武士は読み書きができない者が大多数。
むしろ景時が異端でしたから、価値観の差がそのまま不信感に転化してしまったとも考えられます。
頼朝にも気に入られた和歌の才
風変わりなところでは、梶原景時の和歌の才に関する逸話もあります。
奥州合戦のときのことです。
現代の地名では仙台市と名取市の間を通って太平洋に注ぐ「名取川」。
当時は歌枕として有名な場所の一つであり、壬生忠岑や西行なども題材に用いています。
ここで頼朝が
我ひとり 今日の軍に 名取川
と詠み、景時に下の句をつけるよう命じました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
すると
君もろともに 徒(かち)わたりせん
と返事をしたのだそうです。
続けると
我ひとり 今日の軍に 名取川 君もろともに 徒(かち)わたりせん
となります。
意訳するとすればこんな感じでしょうか。
【意訳】今日の戦は私一人で来たが、勝った暁には君とここを歩いて渡りたいものだ
名取川は恋歌にもよく詠まれていますし、「名を取る」=「恋をしていることが世間に知れ渡ってしまう」ことの暗喩でもあります。
また、戦の道中で詠んだことを考えると、おそらく「徒(歩く)」と「勝ち」をかけているのでしょう。
ちなみに、名取川の名はアイヌ語の「ナイトリベツ(渓谷)」あるいは「ニットリトン(静かな海)」由来と考えられており、恋はあまり関係ないようです。
和歌を読むというのは、他の御家人にはなかなかできないことの一つであり、頼朝からの信頼は上々。
息子たちも同様に頼朝と和歌に興じていて、景時が他の坂東武者からやっかみを買う理由の一つになったかもしれません。
建久元年(1190年)にも和歌に関するエピソードがあります。
頼朝が初めて上洛した際に景時もお供の一員を務め、道中、橋本(静岡県浜名郡新居町浜名)に立ち寄ったときのことです。
当時ここには宿場町があり、頼朝一行がやってくると遊女たちが集まってきました。
宴ついでに頼朝は連歌会を催し、自ら上の句を詠みました。
橋本の 君には何を 渡すべき
これに景時が下の句をつけます。
ただそまかわの 暮れて過ぎばや
続けると
橋本の 君には何を 渡すべき ただそまかわの 暮れて過ぎばや
下の句がちょっとわかりづらいですが、意訳してみますと……。
【意訳】橋本の遊女たちに何を贈るべきか迷ってしまうな、早く決めて川を渡らないと日が暮れてしまう
景時が頼朝を少し嗜めていたのか、それとも迷う様を少し面白がっていたのか、どちらにでもとれる詠みぶりのように感じられます。
上洛の話に及んだので、そのまま頼朝と過ごした京都滞在時に注目してみましょう。
侍所別当に就任
頼朝と共に上洛した梶原景時。
40日ほどの滞在期間中、頼朝は実に8度も後白河上皇に謁見し、綿密に話し合いを重ねました。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用
頼朝が後白河法皇と話し合いを進めている間に、景時も公家とのパイプを築いたと思われます。
翌建久二年(1191年)に徳大寺実定が亡くなった際、梶原家とも縁がある人物だと書かれているからです。
徳大寺実定は百人一首で「後徳大寺左大臣」と書かれている人物で、和歌の他にも管弦や著述を得意とする文化人でした。
平家時代には不遇ながら、頼朝の推挙によって政界に復帰したため、御家人たちとの接点もあったものと思われます。
元から読み書きや和歌の素養があった景時であれば、公私問わず親交を深めるのも納得できますね。
さらに景時は、京都滞在中に頼朝が右近衛大将へ任官されたお礼のため、後白河上皇へ拝賀する際、供奉(ぐぶ・お供をすること)を務めました。
その後、後白河上皇の意向により、御家人10名に官職を賜ることになった際、候補者として景時の名が上がっています。
しかしこのとき、景時を含めた4名は息子や孫に官職を譲りました。
そのまま受けた人もいるので、これは判断に困るところですが、公家とのやりとりもできて、他の坂東武者より、はるかに洗練されていることはご理解いただけるでしょう。
次に大きな話題となるのは、建久三年(1192年)の侍所別当の就任です。
侍所(さむらいどころ)とは鎌倉幕府における軍事警察機関で、別当(べっとう)とは長官を意味します。要は責任者ですね。
直前まで同職を務めていたのは和田義盛。
ドラマでも横田栄司さん演じる義盛が、石橋山の戦いで負けた直後なのに「侍大将になりたい!」とか言って話題になっていましたね。
吾妻鏡には「景時が一日だけ別当になりたいといい、義盛がそれを了承した。その後、景時は職を返さず、別当の地位に収まった」と記されていますが、さすがにこれはないでしょう。
頼朝がこのような適当な人事をするわけがありません。
おそらくは景時の事務能力を買い、武人肌の義盛から交代させたのではないかと思われます。
兎にも角にも、家臣としては最高位の一つを手に入れたわけで、数年間は続きました。
しかし、あるときをもってその安寧は崩壊します。
頼朝の死からの失脚
あるときとは他でもありません。
正治元年(1199年)1月13日に源頼朝が亡くなったのです(享年53)。
家督と将軍職は嫡子の源頼家に引き継がれ、同年4月には『鎌倉殿の13人』の元にもなる十三人の合議制が決定。

源頼家/wikipediaより引用
梶原景時もその一員に選ばれました。
事務能力の高い人物にとっては、本領発揮の場面とも言えるでしょう。
しかしそれは永久に失われてしまいます。
同じく正治元年の10月、合議制ができてからわずか半年後、景時は追放されてしまったのです。
きっかけは、結城朝光(ゆうきともみつ)という御家人だとされています。
朝光が
「先代様がお亡くなりになったときに出家すべきだった。今は薄氷を踏む思いだ」
とボヤいたのに対し、景時が
「こいつは頼家様に不満を抱いている。いずれ謀反を起こすつもりでは?」
と勘違いし、讒言したというのです。
しかし、それを聞いた他の御家人たちが、
「朝光はそんな事を考えていない、景時こそ排除すべきだ!」
と団結。実に66人もの名前を連ねた弾劾状を作成するのでした。
弾劾状は、同じく十三人の一人・大江広元の下へ提出され、しばらくは留め置かれていましたが……。
和田義盛が「貴公は景時ごときを恐れているのか!」と詰め寄ったため、広元は渋々頼家に提出したとされています。
広元としては、早急に事を進めて景時を弾劾するよりも、御家人たちの気分が静まるのを待ちたかったのかもしれません。
弾劾状
なお、この話には、いくつか別の説も存在します。
一つは北条時政の娘・阿波局が絡んだもの。
朝光の愚痴を聞いたのは阿波局であり、
(朝光に対して)「あなたの発言を景時殿が頼家様に伝えていた」
と告げ口したというのです。そのため景時を逆に追い詰めようとして、弾劾状が作られた……という流れですね。
もう一つは、頼家の排斥と実朝の擁立を画策している者がいると頼家に報告したら、逆に景時が弾劾されたという説。
未だ確たる結末には至っておりません。
侍所別当という重要人物の失脚にしては、経緯が入り乱れるのは少々不可解ですが……いかんせん、この時代の武士は「記録をつける」習慣が根付いていないので、致し方ないでしょう。
結局、景時は、鎌倉を追われ、所領である相模一ノ宮に退きました。
頼家が弾劾状の件を景時に直接下問したところ「何も言わずに引き下がった」ともいわれています。
ではなぜ景時は失脚させられたのか?
あくまで個人的な想像ながら、北条氏が他の御家人たちの力を削ぐため、合議制の参加者で、最も他者との軋轢の多かった景時を槍玉に挙げたのではないでしょうか。
景時も、もはや鎌倉にはいられないと判断したのでしょう。
正治二年(1200年)正月に一族の者たちを率いて、相模から西へ向かって出立しました。
行き先は京都だったと考えられています。
しかし、駿河の清見関(きよみがせき)で、偶然居合わせた吉川友兼ら在地の武士たちと戦闘。
景時と息子たちを始めとした一族は善戦しましたが、最終的に一族33人が全員討死あるいは自害となってしまいました。
吾妻鏡では「景時は上洛して倒幕の兵を募ろうとしており、武田有義を担ごうとしていた」とされていますが、なにせ景時側の記録がないので判断ができません。
また、梶原家は徳大寺家をはじめとして公家とのパイプがあったため、その縁を頼ってどこかの公家に仕えようとしていたのではないか……という説も。
公家側の記録でも、この件については見解が一致していません。
九条兼実の記した『玉葉』では、
「景時は密かに鎌倉幕府打倒の陰謀を企てており、それが露見したので討たれたのだという。自業自得だ」
「景時は鎌倉本体の武士であるのに、それを死なせてしまったことは源頼家の落ち度である」
と書かれています。
聖俗の差こそあれ、上方でもこの件についての印象は分かれていたのでしょう。
現場が駿河であり、鎌倉とも京都とも離れていることから、伝聞を重ねるうちに情報が変化したことも考えられます。
まとめ
景時は当時の武士としては異端なほど、記録や報告を事細かに行う人でした。
それが他の武士からは
「あいつは自分の出世のために、他の武士の悪口を報告に入れて蹴落とそうとしている」
と受け取られてしまった可能性は否めません。
景時が討たれた後も御家人の排斥事件は続き、多くの場合、最後の最後まで武力で抵抗しますが、景時の行動は異心がなかったことの証ではないでしょうか。
また、金刺盛澄と言って景時に救われた武士もいて、誰からも嫌われるようなタイプではなかったはずです。
盛澄は建仁三年(1203年)までの活動が記録されているため、景時が追放されたときは健在です。
もしも景時が謀反を起こすつもりなら、そういった人々も頼ったのではないでしょうか。
金刺だけでなく、城長茂という武士も救われた恩を忘れていません。
なんとこの城長茂、景時が討死した一年後に上洛し、弾劾状に名を連ねた御家人を襲撃、そのまま幕府打倒の兵を挙げたのです。
【建仁の乱】と呼ばれている同事件。
さすがに失敗に終わりますが、彼の姉妹である板額御前の奮戦も有名ですね。
金刺盛澄は軍事行動こそ起こさなかったものの、地元に「梶原塚」という塚を建てて菩提を弔っています。
数回移転しながら、現代でも諏訪郡下諏訪町木の下に存在しているとのこと。
盛澄やその子孫、地元の人々が景時の良い面を語り伝えてきたのでしょう。
また、現代では、景時の家臣や、梶原家の菩提寺である興禅寺などによって「かじわら会(→link)」という研究会が作られています。
新型コロナの影響で、集会の機会は縮小しているようですが、例年は供養や懇親会なども積極的に行っていたとのことです。
景時ファンの方は問い合わせてみるのもいいかもしれませんね。
★
義経の生涯があまりに伝説的であるため、義経と敵対した景時には常に悪評がつきまといます。
惜しむらくは、景時当人に吏僚としての才がありながらも、自らの言動を記録しなかったことでしょう。
それさえあったら、まったく別の評価になっていたかもしれません。
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源平合戦の趨勢を決めた一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)平敦盛も討死
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長月 七紀・記
【参考】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』(→amazon)
関幸彦/野口実『吾妻鏡必携』(→amazon)
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon)
日本史史料研究会『将軍・執権・連署: 鎌倉幕府権力を考える』(→amazon)
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon)
国史大辞典
ほか






